◎日本銀行金融研究所 貨幣博物館◎
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貨幣の散歩道

第3話  皇朝十二銭

   和銅元年(708)における和同開珎の鋳造以降、律令政府では平安時代中期までの約280年の間に合計12種類の銅貨、2種類の銀貨および1種類の金貨を発行した。これらは朝廷が発行した銭貨という意味で「皇朝銭」と呼ばれる。そして、このうち銅銭12種類をとくに「皇朝十二銭」という。皇朝十二銭はいずれも素材価値ではなく、律令政府が定めた1文という額面価値で流通する計数貨幣として発行された。
 奈良律令政府では天平宝字4年(760)、銅銭の改鋳を企図し、和同開珎に代わる新銭貨として万年通宝を発行した。平城京造営や大仏殿建立など多額の支出で大きく悪化した財政事情を、貨幣鋳造差益(流通価値と素材価値との差額)の稼得で補おうとしたのである。このとき、律令政府は万年通宝1枚の価値は和同開珎10枚のそれに等しいと定めた。その後、天徳2年(958)の乾元大宝に至るまでの間、10種類の銅銭が発行されたが、いずれの場合においても、律令政府では新銭1に対し旧銭10という交換比率の適用を強制した。
 しかし、原料銅の不足もあって改鋳のたびに皇朝十二銭の素材価値は低下していった。最後の乾元大宝は鉛銭といっていいほど鉛の含有量が高かったとされることが多い。このため、政府による交換比率の適用強制に対しては民間部門からの抵抗が強く、実際の商取引においては、朝廷の意図にもかかわらず、新・旧銭とも等価で利用された。素材価値の低下はまた、計数貨幣としての銅銭に対する人々の信頼を失わせ、それがまた銅銭の価値を下落させることになった。たとえば、銭1文で買える米の量は8世紀はじめには2sだったが、9世紀なかごろになるとわずか10〜20gにまで減少した。
 平安時代中期になると、荘園制の発達とともに律令政府の権威も衰え、人々に公鋳貨の使用を強制する政治的な力も減退した。そうしたなかで、最後の皇朝十二銭である乾元大宝の鋳造前後から、鋳貨に対する信用が大きく動揺し、銭貨の交換手段としての利用が大きく低下した。このような流れのなかで永延元年(987)11月には銭貨の利用停止が宣言され、限定的ではあるにせよ交換手段として利用されていた皇朝十二銭は流通界から姿を消すことになった。そして、一時高まった調庸の銭納も物納に漸次逆戻りしたほか、田地の売買代金も再び米や絹で支払われるようになった。
 こうした皇朝十二銭の流通実態は一体、何を示唆しているのだろうか。第1は、民間部門において財物の流通取引が自律的に高まってはじめて、貨幣が必要とされるということである。政府が貨幣を鋳造すれば、それが直ちに貨幣として広く受け入れられるというのは幻想であり、実体経済がそういう段階にまで成熟してはじめて貨幣が求められるのである。第2は、銅銭の価値下落に関するものである。この価値下落については従来、インフレとみなされることが多い。しかし、当時は米などの物品貨幣が支配的であったという点を考慮すると、むしろ米を基準とした銅銭の相対価値が名目価値から素材価値に基づく交換価値へと収束していく過程を示すものとは考えられないだろうか。

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