| 第1話 貨幣の始まり いきなりで恐縮ながら、問題をひとつ。日本における最初の貨幣は何だったのであろうか。「和同開珎」と答えた人が多いのではないか。しかし、近年、青森県で発掘された三内丸山遺跡は、「縄文人は主として狩猟で生計を立てていた」という定説を覆しただけでなく、縄文時代から貨幣を媒介とした財物の交換が広く行われていたことを示唆している。当時は、矢じり、稲や布帛(ふはく)など、社会のなかで交換価値が高いと認められた財物が、一般受容性をもった物品貨幣として機能していたのである。 われわれは現在、ものの価値を値段と称している。この値段という言葉は、稲が貨幣として利用されていたことに由来する。稲はもともと「ね」と発音されており、稲が交換手段や価値尺度として利用されるなかで、財物の価値は「ね」と呼ばれるようになり、これが「値」の語源となった。 また、布帛が貨幣に利用されていたことは、貨幣の「幣」にその名残がみられることからも窺われる。これらの事例は、わが国では古代より稲や布帛といった物品貨幣が交換手段として広く利用されていたことを裏付けるものといえよう。 このように稲や布帛は物品貨幣として機能していたが、問題がまったくないわけではなかった。価値の保蔵という観点からみると、ともに耐久性の面で難点があるほか、稲の貯蔵に際しては高倉を建てなければならないなど、余分な費用負担を求められるからである。そのため、富の蓄積が進むにつれ、古代では金銀といった貴金属のほか、瑠璃玉や紫水晶など耐久性に優れた奢侈品が富の蓄蔵手段として選好されることになった。奢侈品の多くは中国や朝鮮から伝来したが、天武3年(674)には日本でも銀鉱山が発見された。 金銀などの貴金属を貨幣として利用するに際しては、地金よりも概ね一定の重量に鋳られた固まりのほうが便利なのはいうまでもない。実際、飛鳥板蓋宮伝承地など7世紀後半の飛鳥時代を代表する遺跡のなかから、「無文銀銭」と称される、小孔が穿たれただけの銀製の小円板が出土している。無文銀銭については、これまでの間、貨幣ではないとする見方が強かった。しかし近年では、無文銀銭は和同開珎銀銭1枚と同等の価値を有する貨幣ではないかとするとらえ方が有力となりつつある。銀片の貼り付けにより9〜10gという一定の重さとなるように調整されていたからだ。仮にこの仮説が正しいとすると、わが国では7世紀後半に貨幣の鋳造がはじまり、これが和同開珎公鋳の基礎を形成したと考えられる。 このように日本の貨幣は、非常に古い歴史を有している。また、われわれが現在使っている金融用語も、為替や手形、寄り付きなど、その由来が中世の金融取引にさかのぼれるものが少なくない。しかし、金融論のテキストの貨幣・金融史の項をひも解いてみても、イギリスにおける銀行券あるいは商業銀行の発達史が述べられるにとどまり、わが国の貨幣・金融史について顧みられることはほとんどない。これからしばらくの間、日本の貨幣・金融の歴史を振り返り、「貨幣とは何か」を改めて考えることにしたい。 |