日本貨幣史

古代 7世紀後半~12世紀半ば

7世紀末から8世紀の日本は、中央集権的な律令国家を目指し、中国(唐)の諸制度を導入するなかで、銭貨を発行した。奈良時代(8世紀)には和同開珎をはじめとする3種、平安時代(8世紀末~)には9種の銅銭を発行したが、その後、銭貨の発行と使用は途絶えていった。

7世紀後半 発掘からわかった和同開珎以前のお金

1998年の飛鳥池遺跡(奈良県明日香村)の発掘調査により、7世紀後半に富本銭(ふほんせん)がつくられていたことが明らかとなった。飛鳥池遺跡からは、富本銭とともに富本銭をつくるための鋳型やルツボ、やすりなどが出土した。

富本銭は、『日本書紀』天武12(683)年の「今より以後、必ず銅銭を用いよ。銀銭を用いることなかれ。」という詔に記された銅銭であると考えられている。
詔に書かれている銀銭は無文銀銭であると考えられている。無文銀銭はこれまで、畿内を中心とした15以上の遺跡から出土している。

8世紀初頭 和同開珎の登場

中国(唐)の制度や文化を積極的に採用していた律令国家は、708年に唐の銭貨「開元通宝」をモデルとして和同開珎(わどうかいちん)を発行した。銭貨発行は、国家の独立性と権威を内外に示す重要な意味をもつ。律令国家は、銭貨を蓄えた者に位階を与えるなどの銭貨の使用の促進策をとり、銭貨の普及に努めた。

律令国家は、発行した銭貨を平城京造営などの支払い手段として用いた。

8~10世紀 古代銭貨の衰退

律令国家は、富本銭を含め13種類の銅銭を発行した。新銭を発行する際に新銭1枚=旧銭10枚とする政策をとったこと、銅銭の軽小化や質の粗悪化(原材料の銅不足による鉛の含有率の増加)により、銅銭の価値は急速に低下し、銅銭に対する人々の信用は失われた。958年発行の乾元大宝を最後に新たな銭貨は発行されなかった。

古代における銅の生産地の一つとされる長登銅山(現在の山口県)では、9世紀以降、銅の生産が減り、鉛の生産が増加した。

11世紀~12世紀半ば 商品貨幣の時代

10世紀の銭貨発行を最後として銭貨流通が途絶えると、価値が安定した米や絹・布(麻布)が銭貨の代わりに貨幣として使われた。これらは、モノの値段をあらわす安定的な価値基準として、銭貨に代わる貨幣としての役割を果たした。

米や絹・布(麻布)は持ち運びが不便だったことから、省力化のため信用取引が行われるようになった。中央の役所は、所管の倉などに支払いを命じた書類を出し、それが現在の小切手のような役割を果たした。

中世 12世紀半ば~16世紀前半

12世紀半ば以降、中国から銭貨が大量に流入すると、銭貨の使用が人々の間で浸透し、商品経済が発達した。日本では、16世紀まで国家が貨幣を発行せず、人々は渡来銭を使用した。しかし、銭貨需要の高まりとともに私鋳銭などが増加し、銭貨の質にばらつきが生じると、人々が銭貨を選び劣悪な銭貨の排除など(撰銭)が行われるようになり、銭貨の流通は混乱した。16世紀後半、中国からの銭貨流入が途絶えると、米や金・銀が貨幣として使用されるようになった。

12世紀半ば~13世紀 銭貨の流入と浸透

12世紀半ば以降、中国から銭貨が流入するようになり、銭貨は1枚=1文の価値をもつ貨幣として使われるようになった。13世紀には、銭貨の使用が人々の間で浸透し、当初、銭貨を認めていなかった鎌倉幕府や朝廷もその使用を認めた。貨幣としての役割は、それまでの米や絹・布(麻布)から銭貨に集約されていった。

13世紀以降、人々は年貢を銭貨で納めるようになった(代銭納)。それまで年貢として納められていた生産物は、各地の市で商品として取引されるようになり、商品経済が発達した。
<中国の銭貨事情と銭貨流出>
北宋(10~12世紀)は、中国歴代王朝のなかで、最も多くの銭貨を製造し、滅亡後、銭貨は日本などへ流出した。元(13~14世紀)は、紙幣を貨幣の中心にすえ、銭貨の使用を禁止したため、13世紀後半、銭貨が大量に流出した。

14世紀~15世紀後半 商品経済の発展と銭貨需要の増大

畿内や諸国をつなぐ都市で地域の名産品などが盛んに取引されるようになり、「有徳人」と呼ばれた裕福な商工業者が現れた。こうした商品経済の発展とともに、国内での銭貨需要が増大した。室町幕府は、中国(明)との交易を通じて銭貨を輸入したが、銭貨の流入は13世紀と比べ減少した。また、14世紀後半から大量備蓄銭が多くみられるようになった。

銭貨需要の増大と中国からの銭貨流入の減少をうけて、国内では渡来銭をまねた模鋳銭がつくられるようになった。
14世紀前半に後醍醐天皇が銭貨「乾坤通宝」などの発行を計画したが、建武の新政の失敗で頓挫した。
<中国の銭貨事情と銭貨流出>
明(14~17世紀)は、当初、銭貨と紙幣を併用させたが、銭貨の製造量は少なかった。また、海外貿易を朝貢貿易に限定する海禁政策をとったため、これが銭貨流出の減少要因にもなった。

15世紀後半~16世紀前半 撰銭の発生

15世紀後半以降、商品流通の発展によって国内の銭貨需要はさらに増大した。国内外で私的につくられた銭貨(模鋳銭・私鋳銭)の流通により、銭貨は種類や形状により区別されるようになった。それまでの銭貨1枚=1文という中世的貨幣の特徴が崩れ、各地で銭種による価値の差が生まれるなど、国内の銭貨流通は混乱した。幕府や大名は、銭貨流通の円滑化のため、撰銭令を繰り返し出した。

<中国の銭貨事情と銭貨流出>
15世紀半ば、中国東南部で私鋳銭が盛んにつくられ、撰銭が発生した。私鋳銭は明銭と共に日本へ流出した。
<中世の金融>
貨幣経済の浸透により、信用取引も発達した。14世紀初~16世紀初にかけて「割符(さいふ)」と呼ばれる手形が隔地間での送金・支払手段に使用された。十貫文のものが多く、不特定多数の人々の間を流通した。

近世 16世紀半ば~19世紀前半

16世紀以降、戦国大名による鉱山開発により金銀貨がつくられた。織田信長は金・銀・銭貨の比価を定め、豊臣秀吉は天正大判などの金銀貨を製造した。徳川家康は金銀山の支配を進め、貨幣製造の技術・体制を整備し、1601年慶長金銀を発行した。その後、江戸幕府は、寛永通宝を発行し、金貨・銀貨・銭貨による三貨制度が整った。三貨制度は、統一政権が国内の基準貨幣を制定し、日本独自の貨幣体系が成立したという点でその意義は大きい。一方で、各大名領国内では藩札など三貨以外の貨幣も容認され、江戸時代は実際には、緩やかな貨幣統合であった。

18世紀後半、農村での換金作物の生産の普及などから貨幣経済がより浸透し、小額貨幣の需要が増大した。江戸幕府は、金貨単位の計数貨幣「明和南鐐二朱銀」を発行し、秤量貨幣であった銀貨は事実上、金貨の補助貨幣となった。幕末にかけて、財政窮乏を補うために行われた文政・天保の改鋳によって慢性的なインフレとなった。

16世紀半ば~後半 銭貨流入の途絶と金銀貨の登場

16世紀後半、中国からの銭貨供給が途絶え銭貨の流通量が減少したため、1570年代の西日本では土地などの大口の取引は、銭貨による支払い(銭遣い)から米による支払い(米遣い)に変化した。また、戦国大名による鉱山の開発が進み、石州銀や甲州金などの領国貨幣がつくられ、高額取引や軍資金に利用された。

石見銀山は、精錬技術「灰吹法」を導入し、各地の鉱山開発の先駆けとなった。石見で産出された銀は、海外に輸出された。
甲州金は、「両」「分」「朱」という4進法の貨幣単位を採用した。甲州金の貨幣単位は、江戸時代の金貨の単位に引き継がれた。
<中国の銭貨事情>
16世紀中国では、銀が貨幣的役割を独占し、私鋳銭の製造が停止されたため、日本への銭貨流出は停止した。

16世紀後半 金・銀貨幣の定着

織田信長や豊臣秀吉は、貨幣制度の構築を目指した。信長は撰銭令を出し、そのなかで高額品の売買は金銀の使用を基本とし、銭貨との交換比率を定めた。秀吉は、諸国の鉱山を掌握し、天正大判などの基準となる貨幣をつくった。

大判は武家同士の儀礼などで使用され、社会的に浸透し、金が貨幣として公的な位置づけを得ていった。

17世紀 金・銀・銅の貨幣の統一

徳川家康は、秀吉の鉱山を直轄化し、貨幣製造の技術を確保して、小判座や銀座など製造体制を整備した。1601年に様式・品位(金銀の含有率)・形態などを統一した慶長金銀を発行した。銭貨は、しばらく前時代より流通していた銭貨を使用したが、銭貨の安定的な供給を目指し、江戸幕府は1636年に寛永通宝を発行した。寛永通宝は当初、期間を定めて許可を与えた全国の銭座で請負方式でつくられた。

江戸幕府は統一政権として、金・銀・銭貨それぞれを独立した価値を持つ貨幣として発行した。金貨(小判・一分金など)は、額面を記した計数貨幣、銀貨(丁銀・豆板銀)は重さで取引する秤量貨幣、銭貨は1枚1文の計数貨幣であった。

公定相場:金1両=銀50匁=銭4000文
金貨1両(小判1枚)=4分(ぶ)=16朱
銀貨1匁(≒3.75g)=10分(ふん),1000匁=1貫
銭貨1000文=1貫文

17世紀 紙幣の発生と藩札の流通

1600年頃、伊勢の山田地方で、神職でもあった商人(御師)により秤量銀貨の釣り銭の代わりに山田羽書(小額銀貨の預り証)が発行され、紙幣として同地域で流通した。やがて近畿地方を中心に商人が私札を発行し、また西日本を中心とした各藩では財政赤字の補填や幕府発行による小額貨幣の不足を補うことを目的として藩札を発行した。

幕府は幕府発行の全国通貨(金銀銭貨)を通用させるため、札遣いの禁止、年限を設けた発行許可、銀札以外の使用禁止など、次々藩札抑制策を採ったが実効性をもたなかった。
幕末までに、約8割の藩が藩札を発行した。少額貨幣の不足を補うかたちで円滑に流通した藩札があった一方、乱発により価値が下落した藩札もあった。

17世紀末~18世紀前半 元禄・宝永の改鋳

江戸幕府は、貨幣流通量の増大や幕府財政の立て直しを図るため、慶長金銀に比べて金銀の品位・量目を下げた貨幣の改鋳を実施した(1695年元禄の改鋳・1706~11年宝永の改鋳)。当初は大きな混乱はなく、幕府は多額の改鋳差益(出目)を得たが、後に偽造の増加や貨幣価値の下落などの問題が生じた。

幕府は、改鋳に際し金銀吹所を設立し、金・銀座人を集めて吹替作業にあたらせた(直吹)。元禄の改鋳以降、小判座は金座とよばれた。
公定相場:金1両=銀60匁=銭4000文

18世紀前半 正徳・享保の改鋳

江戸幕府は、元禄の改鋳による物価上昇に対して、新井白石の提言により1714年慶長金銀と同品位に引き上げる改鋳を実施した(正徳の改鋳)。この結果、貨幣量は急激に減少し、経済活動の停滞と物価の下落をもたらした。

幕府は、正徳の改鋳の翌1715年、小判の品位をさらに引き上げた(享保小判)。正徳・享保の改鋳は、江戸時代を通じ、金銀の品位を上げた唯一の改鋳である。

18世紀半ば 元文の改鋳

江戸幕府は、正徳・享保の改鋳による米価の下落に対処し金銀貨の流通量を増やすため、1736年、金銀貨の品位を引き下げた(元文の改鋳)。この改鋳により、経済情勢は好転し、元文小判はその後約80年にわたり安定的に流通した。

元文の改鋳は、良質な正徳金銀から品位を下げたものであったが、財政収入を目的としたものではなく、必要な量の貨幣を国内に行き渡らせる目的で行われた。
元文期には、短期間に大量に銭貨がつくられた。1739年からは寛永通宝の鉄銭がつくられるようになり、その後鉄銭が中心となっていった。鋳銭量を統制するため、18世紀半ば以降、銭貨は原則幕府支配下の鋳銭定座でつくられた。

18世紀半ば~19世紀 定量銀貨・計数銀貨の登場

江戸幕府は、1765年、公定相場(金1両=銀60匁)で金貨と交換させる定量の銀貨単位の計数貨幣「明和五匁銀」、1772年には金貨単位の計数貨幣「明和南鐐二朱銀」をそれぞれ発行した。幕府の両替商への積極的な貸付などの流通促進策もあって、19世紀前半には計数銀貨が全国的に流通するようになった。

当初、幕府は明和五匁銀12枚(60匁)=金1両に固定しようとしたが、それまで金銀相場の実際の変動で利益を得ていた両替商が強く反発した。
明和南鐐二朱銀は、表面に「8枚で小判1両に換える」という文言があり、金貨の補助貨幣となった。幕府が両替商などに利益が出るよう便宜を図ったことに加え、取扱いが秤量貨幣に比べて便利なことから流通するようになった。
銭貨については、1768年、真鍮製の寛永通宝四文銭がつくられた。四文銭は裏面に波紋がある。幕末から明治にかけては鉄製の四文銭が大量につくられた。

19世紀前半 文政・天保の改鋳

江戸幕府は、財政窮乏を補うために文政の改鋳(1818年~)、天保の改鋳(1832年~)を実施したが、物価の上昇を招いた。また、財政補填のため、天保通宝百文銭、天保五両判が発行された。

天保通宝百文銭(1835年)は、寛永通宝一文銭5文半程度の原料で100文通用とされ、大量に発行されたことにより、慢性的な物価高騰を招いた。
天保五両判(1837年)は、純金量が天保小判の4枚半分しかなかったため、評判が悪く短期間で製造を中止した。
公定相場:金1両=銀60匁=銭6500文

近代 19世紀半ば~20世紀前半

19世紀半ば、幕末の開港直後には金貨が海外へ流出し、金貨流出を抑えるための万延の改鋳を行ったことから、物価はますます上昇し、貨幣制度は維新期にかけて混迷を深めた。
明治政府は、欧米先進国に対抗できる強国を作るため、富国強兵・殖産興業(近代産業育成)の政策を進めた。そのためには、近代的な貨幣制度を確立することが必要で、明治政府は、1871年「新貨条例」を制定し、貨幣単位を従来の「両・分・朱」から「円・銭・厘」とした。1881年には松方正義が大蔵卿に就任し、中央銀行設立の必要を訴え、日本銀行は「松方財政」のなかで1882年10月に誕生した。

19世紀半ば 不平等条約の締結と貨幣

1858年、日本はアメリカ・イギリス・ロシア・オランダ・フランス5カ国との間に不平等条約として知られる修好通商条約を結び、同じ種類の貨幣は品位に関係なく同じ重さで通用することが定められた(「同種同量の原則」)。1859年、開港による金貨流出を懸念した幕府は、開港日の前日、天保一分銀より純銀量が多い安政二朱銀を発行し、洋銀1ドル=二朱銀2枚で交換させようとした。しかし、アメリカの反対によって、洋銀1ドル=一分銀3枚となった。

洋銀は、貿易で使われた外国の銀貨で、日本には主にメキシコ銀貨が入ってきた。
日米和親条約(1854年)の下で、洋銀1ドル=一分銀1枚と定められた。その後、アメリカ初代駐日総領事ハリスが「同種同量の原則」を主張し、洋銀1ドル=一分銀3枚となった。

19世紀後半 金貨の大量流出のカラクリと万延の改鋳

当時の金銀の価格は、日本が金1g≒銀5g、外国では金1g≒銀15gで、日本では金が割安であったため、日本から海外へ金貨が大量に流出した。1860年、万延の改鋳で純金量を1/3に減らし金銀比価を国際水準としたことで、海外への金貨の大量流出は収束した。

外国商人らは、日本で4枚の洋銀を一分銀、さらに小判へと交換し、海外で小判を交換すると洋銀12枚を得ることができた。

金貨流出の対応策として発行された万延二分金は、幕府財政の補填のため大量に発行され、国内で急激なインフレをもたらした。

19世紀後半 1868~70年代前半 明治政府による貨幣制度の整備「円の誕生」

明治新政府は、当初江戸時代の金・銀・銭貨や藩札などをそのまま通用させる一方、自らも「両」単位の貨幣や紙幣を発行した。幕末~明治維新期に混乱した貨幣制度を建て直すため、明治政府は新貨条例(1871年)により十進法の貨幣単位「円・銭・厘」を採用し、近代洋式製法による金・銀・銅の新貨幣を発行した。

新貨条例により、金貨本位制(金1.5g=1円)を採用し、貨幣単位は1円=100銭=1000厘となった。
政府は、紙幣「大蔵省兌換証券」、次いで「明治通宝札」を発行した。政府は兌換制度の確立を目指していたが、当時の日本では金銀が不足していたため、発行された政府紙幣は、実際には金銀貨と交換できない不換紙幣であった。

19世紀後半 1870年代後半 国立銀行紙幣の発行と紙幣価値下落

明治政府は、民間銀行に兌換銀行券を発行させ、殖産興業資金の供給をはかるため、「国立銀行条例」を制定(1872年)した。これにより国立銀行(民間銀行)が設立され国立銀行紙幣が発行されたが、条例改正(1876年)により、国立銀行紙幣は事実上不換紙幣となった。

政府は、西南戦争(1877年)の戦費を不換紙幣の増発でまかなった。このため、膨大な紙幣が流通するようになり、紙幣価値は大幅に下落し、紙幣に対する信用が大きく揺らいだ。

紙幣で測った米価は、西南戦争前と比べて2倍に急騰し、銀貨に対する紙幣の価値も暴落した。

19世紀後半 1880年代 日本銀行の誕生

1881年、松方正義が大蔵卿に就任した。松方大蔵卿は、紙幣価値の下落は不換紙幣の過剰な発行が原因と考え、緊縮財政による剰余金で不換紙幣の整理を断行した。また、松方大蔵卿は、兌換制度の確立と近代的な通貨・金融制度の確立を目的として中央銀行設立の準備を進め、日本銀行は1882(明治15)年10月に開業した。

最初の日本銀行券「大黒札」は、紙幣価値の回復を待って、日本銀行の開業から2年半後(1885年)に発行された。日本銀行券は、本位貨幣(正貨)である銀貨と交換できる兌換銀券であった。松方大蔵卿は、欧州主要国にならい金本位制を理想としたが、日本は蓄積していた正貨が銀であったため、銀本位制となった。
日本銀行券は円滑に流通し、整理が進められていた国立銀行紙幣と政府紙幣は1899年末に通用停止となった。

19世紀末~20世紀初 1890~1910年代 金本位制の確立

欧米先進国は、19世紀後半、銀本位制から金本位制へと移行した。日本も先進国の大勢に従い、1897年に金0.75g=1円とする「貨幣法」を制定し、日清戦争の賠償金を準備金として金本位制を確立した。金本位制の確立により、日本は国際的な経済・金融秩序に加わることになった。

日本銀行券はそれまで「日本銀行兌換銀券」だったが、金貨と交換(兌換)できる「日本銀行兌換券」になった。
1914年に始まった第一次世界大戦による大戦景気により日本銀行券の需要は増大した。

20世紀前半 1920年代 金融恐慌の発生

第一次世界大戦が終わり、ヨーロッパ諸国が復興してくると、日本の輸出は減少し、各産業を不況の波が襲った。1923年には関東大震災にもみまわれ、日本経済は大きな打撃を受けた。そうしたなか1927年3月、金融恐慌がおこった。

日本銀行は多額の日本銀行券を発行し、預金者の不安を鎮めることに努め、政府は3週間のモラトリアム(支払猶予令)を発令するなどの対策を講じた。
不安にかられた人々が預金の引き出しに殺到する取付け騒ぎが拡がり、日本銀行券が不足したため、急遽裏面の印刷を省いた二百円券(裏白券)を発行した。

20世紀前半 1930年代 金本位制から管理通貨制へ

ニューヨークのウォール街での株価大暴落(1929年)をきっかけとする世界恐慌の影響で、イギリスは1931年9月に金本位制からの離脱に追い込まれた。欧州各国はイギリスに続いて金本位制を停止し、日本も同年12月に銀行券の金貨兌換を停止し、金本位制から離脱した。その後、1942年に公布された日本銀行法により、名実ともに今日につながる管理通貨制へと移行した。

管理通貨制度のもとでは、日本銀行券は金貨と交換不可能で、通貨の発行量は中央銀行が調節することになった。
日本銀行法により券面の金貨引換文言が消え、「日本銀行兌換券」は「日本銀行券」となった。