日本銀行金融研究所貨幣博物館
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日本貨幣史 近世2

近世2

 18世紀後半、農村での換金作物の生産の普及などから貨幣経済がより浸透し、小額貨幣の需要が増大した。江戸幕府は、金貨単位の計数貨幣「明和南鐐二朱銀」を発行し、秤量貨幣であった銀貨は事実上、金貨の補助貨幣となった。
 幕末にかけて、財政窮乏を補うために行われた文政・天保の改鋳によって慢性的なインフレとなった。幕末の開港直後には金貨が海外へ流出し、金貨流出を抑えるための万延の改鋳を行ったことから、物価はますます上昇し、貨幣制度は維新期にかけて混迷を深めた。

18世紀半ば~19世紀

定量銀貨・計数銀貨の登場

 江戸幕府は、1765年、公定相場(金1両=銀60匁)で金貨と交換させる定量の銀貨単位の計数貨幣「明和五匁銀」、1772年には金貨単位の計数貨幣「明和南鐐二朱銀」をそれぞれ発行した。幕府の両替商への積極的な貸付などの流通促進策もあって、19世紀前半には計数銀貨が全国的に流通するようになった。




 当初、幕府は明和五匁銀12枚(60匁)=金1両に固定しようとしたが、それまで金銀相場の実際の変動で利益を得ていた両替商が強く反発した。
 明和南鐐二朱銀は、表面に「8枚で小判1両に換える」という文言があり、金貨の補助貨幣となった。幕府が両替商などに利益が出るよう便宜を図ったことに加え、取扱いが秤量貨幣に比べて便利なことから流通するようになった。
 銭貨については、1768年、真鍮製の寛永通宝四文銭がつくられた。四文銭は裏面に波紋がある。幕末から明治にかけては鉄製の四文銭が大量につくられた。

19世紀前半

文政・天保の改鋳

 江戸幕府は、財政窮乏を補うために文政の改鋳(1818年~)、天保の改鋳(1832年~)を実施したが、物価の上昇を招いた。また、財政補填のため、天保通宝百文銭、天保五両判が発行された。



 天保通宝百文銭(1835年)は、寛永通宝一文銭5文半程度の原料で100文通用とされ、大量に発行されたことにより、慢性的な物価高騰を招いた。
 天保五両判(1837年)は、純金量が天保小判の4枚半分しかなかったため、評判が悪く短期間で製造を中止した。
 公定相場:金1両=銀60匁=銭6500文

19世紀半ば

不平等条約の締結と貨幣

 1858年、日本はアメリカ・イギリス・ロシア・オランダ・フランス5カ国との間に不平等条約として知られる修好通商条約を結び、同じ種類の貨幣は品位に関係なく同じ重さで通用することが定められた(「同種同量の原則」)。1859年、開港による金貨流出を懸念した幕府は、開港日の前日、天保一分銀より純銀量が多い安政二朱銀を発行し、洋銀1ドル=二朱銀2枚で交換させようした。しかし、アメリカの反対によって、洋銀1ドル=一分銀3枚となった。




 洋銀は、貿易で使われた外国の銀貨で、日本には主にメキシコ銀貨が入ってきた。
 日米和親条約(1854年)の下で、洋銀1ドル=一分銀1枚と定められた。その後、アメリカ初代駐日総領事ハリスが「同種同量の原則」を主張し、洋銀1ドル=一分銀3枚となった。

19世紀後半

金貨の大量流出のカラクリと万延の改鋳

 当時の金銀の価格は、日本が金1g≒銀5g、外国では金1g≒銀15gで、日本では金が割安であったため、日本から海外へ金貨が大量に流出した。1860年、万延の改鋳で純金量を1/3に減らし金銀比価を国際水準としたことで、海外への金貨の大量流出は収束した。


 外国商人らは、日本で4枚の洋銀を一分銀、さらに小判へと交換し、海外で小判を交換すると洋銀12枚を得ることができた。






 金貨流出の対応策として発行された万延二分金は、幕府財政の補填のため大量に発行され、国内で急激なインフレをもたらした。