日本銀行金融研究所貨幣博物館
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日本貨幣史 近世1

近世1

 16世紀以降、戦国大名による鉱山開発により金銀貨がつくられた。織田信長は金・銀・銭貨の比価を定め、豊臣秀吉は天正大判などの金銀貨を製造した。徳川家康は金銀山の支配を進め、貨幣製造の技術・体制を整備し、1601年慶長金銀を発行した。その後、江戸幕府は、寛永通宝を発行し、金貨・銀貨・銭貨による三貨制度が整った。三貨制度は、統一政権が国内の基準貨幣を制定し、日本独自の貨幣体系が成立したという点でその意義は大きい。一方で、各大名領国内では藩札など三貨以外の貨幣も容認され、江戸時代は実際には、緩やかな貨幣統合であった。

16世紀後半

金・銀貨幣の定着

 織田信長や豊臣秀吉は、貨幣制度の構築を目指した。信長は撰銭令を出し、そのなかで高額品の売買は金銀の使用を基本とし、銭貨との交換比率を定めた。秀吉は、諸国の鉱山を掌握し、天正大判などの基準となる貨幣をつくった。




 大判は武家同士の儀礼などで使用され、社会的に浸透し、金が貨幣として公的な位置づけを得ていった。

17世紀

金・銀・銅の貨幣の統一

 徳川家康は、秀吉の鉱山を直轄化し、貨幣製造の技術を確保して、小判座や銀座など製造体制を整備した。1601年に様式・品位(金銀の含有率)・形態などを統一した慶長金銀を発行した。銭貨は、しばらく前時代より流通していた銭貨を使用したが、銭貨の安定的な供給を目指し、江戸幕府は1636年に寛永通宝を発行した。寛永通宝は当初、期間を定めて許可を与えた全国の銭座で請負方式でつくられた。




 江戸幕府は統一政権として、金・銀・銭貨それぞれを独立した価値を持つ貨幣として発行した。金貨(小判・一分金など)は、額面を記した計数貨幣、銀貨(丁銀・豆板銀)は重さで取引する秤量貨幣、銭貨は1枚1文の計数貨幣であった。

 公定相場:金1両=銀50匁=銭4000文
 金貨1両(小判1枚)=4分(ぶ)=16朱
 銀貨1匁(≒3.75g)=10分(ふん),1000匁=1貫
 銭貨1000文=1貫文






















17世紀

紙幣の発生と藩札の流通

 1600年頃、伊勢の山田地方で、神職でもあった商人(御師)により秤量銀貨の釣り銭の代わりに山田羽書(小額銀貨の預り証)が発行され、紙幣として同地域で流通した。やがて近畿地方を中心に商人が私札を発行し、また西日本を中心とした各藩では財政赤字の補填や幕府発行による小額貨幣の不足を補うことを目的として藩札を発行した。




 幕府は幕府発行の全国通貨(金銀銭貨)を通用させるため、札遣いの禁止、年限を設けた発行許可、銀札以外の使用禁止など、次々藩札抑制策を採ったが実効性をもたなかった。
 幕末までに、約8割の藩が藩札を発行した。少額貨幣の不足を補うかたちで円滑に流通した藩札があった一方、乱発により価値が下落した藩札もあった。

17世紀末~18世紀前半

元禄・宝永の改鋳

 江戸幕府は、貨幣流通量の増大や幕府財政の立て直しを図るため、慶長金銀に比べて金銀の品位・量目を下げた貨幣の改鋳を実施した(1695年元禄の改鋳・1706~11年宝永の改鋳)。当初は大きな混乱はなく、幕府は多額の改鋳差益(出目)を得たが、後に偽造の増加や貨幣価値の下落などの問題が生じた。




 幕府は、改鋳に際し金銀吹所を設立し、金・銀座人を集めて吹替作業にあたらせた(直吹)。元禄の改鋳以降、小判座は金座とよばれた。
 公定相場:金1両=銀60匁=銭4000文

18世紀前半

正徳・享保の改鋳

 江戸幕府は、元禄の改鋳による物価上昇に対して、新井白石の提言により1714年慶長金銀と同品位に引き上げる改鋳を実施した(正徳の改鋳)。この結果、貨幣量は急激に減少し、経済活動の停滞と物価の下落をもたらした。




 幕府は、正徳の改鋳の翌1715年、小判の品位をさらに引き上げた(享保小判)。正徳・享保の改鋳は、江戸時代を通じ、金銀の品位を上げた唯一の改鋳である。

18世紀半ば

元文の改鋳

 江戸幕府は、正徳・享保の改鋳による米価の下落に対処し金銀貨の流通量を増やすため、1736年、金銀貨の品位を引き下げた(元文の改鋳)。この改鋳により、経済情勢は好転し、元文小判はその後約80年にわたり安定的に流通した。




 元文の改鋳は、良質な正徳金銀から品位を下げたものであったが、財政収入を目的としたものではなく、必要な量の貨幣を国内に行き渡らせる目的で行われた。
 元文期には、短期間に大量に銭貨がつくられた。1739年からは寛永通宝の鉄銭がつくられるようになり、その後鉄銭が中心となっていった。鋳銭量を統制するため、18世紀半ば以降、銭貨は原則幕府支配下の鋳銭定座でつくられた。