日本銀行金融研究所貨幣博物館
image
日本貨幣史 中世

中世

 12世紀半ば以降、中国から銭貨が大量に流入すると、銭貨の使用が人々の間で浸透し、商品経済が発達した。日本では、16世紀まで国家が貨幣を発行せず、人々は渡来銭を使用した。しかし、銭貨需要の高まりとともに私鋳銭などが増加し、銭貨の質にばらつきが生じると、人々が銭貨を選び劣悪な銭貨の排除など(撰銭)が行われるようになり、銭貨の流通は混乱した。16世紀後半、中国からの銭貨流入が途絶えると、米や金・銀が貨幣として使用されるようになった。

12世紀半ば~13世紀

銭貨の流入と浸透

 12世紀半ば以降、中国から銭貨が流入するようになり、銭貨は1枚=1文の価値をもつ貨幣として使われるようになった。13世紀には、銭貨の使用が人々の間で浸透し、当初、銭貨を認めていなかった鎌倉幕府や朝廷もその使用を認めた。貨幣としての役割は、それまでの米や絹・布(麻布)から銭貨に集約されていった。



 13世紀以降、人々は年貢を銭貨で納めるようになった(代銭納)。それまで年貢として納められていた生産物は、各地の市で商品として取引されるようになり、商品経済が発達した。
 <中国の銭貨事情と銭貨流出>
 北宋(10~12世紀)は、中国歴代王朝のなかで、最も多くの銭貨を製造し、滅亡後、銭貨は日本などへ流出した。元(13~14世紀)は、紙幣を貨幣の中心にすえ、銭貨の使用を禁止したため、13世紀後半、銭貨が大量に流出した。

14世紀~15世紀後半

商品経済の発展と銭貨需要の増大

 畿内や諸国をつなぐ都市で地域の名産品などが盛んに取引されるようになり、「有徳人」と呼ばれた裕福な商工業者が現れた。こうした商品経済の発展とともに、国内での銭貨需要が増大した。室町幕府は、中国(明)との交易を通じて銭貨を輸入したが、銭貨の流入は13世紀と比べ減少した。また、14世紀後半から大量備蓄銭が多くみられるようになった。




 銭貨需要の増大と中国からの銭貨流入の減少をうけて、国内では渡来銭をまねた模鋳銭がつくられるようになった。
 14世紀前半に後醍醐天皇が銭貨「乾坤通宝」などの発行を計画したが、建武の新政の失敗で頓挫した。
 <中国の銭貨事情と銭貨流出>
 明(14~17世紀)は、当初、銭貨と紙幣を併用させたが、銭貨の製造量は少なかった。また、海外貿易を朝貢貿易に限定する海禁政策をとったため、これが銭貨流出の減少要因にもなった。

15世紀後半~16世紀前半

撰銭の発生

 15世紀後半以降、商品流通の発展によって国内の銭貨需要はさらに増大した。国内外で私的につくられた銭貨(模鋳銭・私鋳銭)の流通により、銭貨は種類や形状により区別されるようになった。それまでの銭貨1枚=1文という中世的貨幣の特徴が崩れ、各地で銭種による価値の差が生まれるなど、国内の銭貨流通は混乱した。幕府や大名は、銭貨流通の円滑化のため、撰銭令を繰り返し出した。




 <中国の銭貨事情と銭貨流出>
 15世紀半ば、中国東南部で私鋳銭が盛んにつくられ、撰銭が発生した。私鋳銭は明銭と共に日本へ流出した。
 <中世の金融>
 貨幣経済の浸透により、信用取引も発達した。14世紀初~16世紀初にかけて「割符(さいふ)」と呼ばれる手形が隔地間での送金・支払手段に使用された。十貫文のものが多く、不特定多数の人々の間を流通した。

16世紀半ば~後半

銭貨流入の途絶と金銀貨の登場

 16世紀後半、中国からの銭貨供給が途絶え銭貨の流通量が減少したため、1570年代の西日本では土地などの大口の取引は、銭貨による支払い(銭遣い)から米による支払い(米遣い)に変化した。また、戦国大名による鉱山の開発が進み、石州銀や甲州金などの領国貨幣がつくられ、高額取引や軍資金に利用された。




 石見銀山は、精錬技術「灰吹法」を導入し、各地の鉱山開発の先駆けとなった。石見で産出された銀は、海外に輸出された。
 甲州金は、「両」「分」「朱」という4進法の貨幣単位を採用した。甲州金の貨幣単位は、江戸時代の金貨の単位に引き継がれた。
 <中国の銭貨事情>
 16世紀中国では、銀が貨幣的役割を独占し、私鋳銭の製造が停止されたため、日本への銭貨流出は停止した。