貨幣博物館 常設展示図録
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memoゆるやかなお金の統一 49銅の不足から、幕府は鉄を材料とする銭貨をつくった。鉄銭は銅銭に比べて錆びやすく、びた銭・なべ銭ともよばれた。この時期以降の一文銭は、鉄銭となっていった。天保期(1830〜1844年)には、銅を材料として一文銭をつくると鋳銭事業が赤字となり、発行益を得るために幕府は百文銭を発行した。裏面には「当百」と表示されている。ただし、額面を下回る価値で使われていたほか、偽造も多かった。開港後、民間貿易の開始にともない国内の商品取引が活発になり小額貨幣に対する需要が増す一方で、銅銭の密輸出もあって銭貨不足が強まった。このため幕府は、鉄製、銅製の四文銭を相次いで発行した。銭座は、銭貨を製造するために設置され、幕府が商人などに、製造量や期間を決めて請け負わせた。全国各地に置かれたが、江戸時代後半になると幕府の統制が強まり、金座・銀座が運営した。寛永通宝の裏面と鋳造地佐渡鋳造Tempo Tsuho(Copper, 100 Mon)寛永通宝(鉄)Kan’ei Tsuho(Iron)天保通宝 百文銭寛永通宝 四文銭(鉄)Kan’ei Tsuho (Iron, 4 Mon)1739年1835年1860年明和期(1764〜1772年)には、銅と亜鉛の合金である真鍮を材料とする四文銭が大量につくられた。同じ時期につくられた計数銀貨とともに、盛んな商品流通を支えた。仙台通宝は領内のみで通用が許された銭貨で、幕府による一元的な金属貨幣発行の例外であった。幕末に数多く発行された地方貨幣の先駆けとなった。寛永通宝 四文銭(真鍮)Kan’ei Tsuho (Brass, 4 Mon)仙台通宝(鉄)文久永宝 四文銭(銅)1768年Sendai Tsuho(Iron)1784年Bunkyu Eiho (Copper, 4 Mon)1863年裏裏裏裏裏裏仙台鋳造足尾鋳造長崎鋳造全国各地にあった銭座

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